「天六」のおばちゃんと原爆の話
河合塾広島校で寮生活を送っていた1992年、私は当時19歳で広島駅近くの小さなお好み焼き店の常連でした
お店の名前は「天六」
車も通れない狭い路地の奥まった線路脇に佇む「天六」は推定80歳越えのお婆さんが店主で、カウンターと2人がけテーブルが2つの小さなお店でした
ここでは当時の呼び方で「おばちゃん」と表記します
豚玉が350円、麺と野菜2倍でも390円という安さで近所の浪人生に人気のお店で、私も毎日のように昼食で通っていました
高齢店主1人なので混雑時は大変です
常連だった私はみるにみかねてコップやお皿の配膳を手伝うこともあり「兄ちゃん、いつも悪いね」と少しずつおばちゃんと雑談も交わすようになってました
そして季節は冬になり受験も近づいてきました
私はなにかの理由で昼食を食べ損ない、昼過ぎの遅い時間帯に「天六」を訪ねました
珍しく他のお客はおらず、私1人でお好み焼きを焼いてもらいます
私は何気なく「おばちゃん、このお店の名前はなんで天六なん?」ときくとおばちゃんは「昔、大阪の天六に住んでたんよ。だからその名前にした」
私「そうなんだ。大阪におったのはいつごろ?」
おばちゃん「戦前よ。戦争が終わる前には広島に帰ってた」
私はここで「はっ!」としました。ということは・・
私「・・そしたらおばちゃん、原爆のときは・・」
おばちゃん「おったよ、この近所に。あの時、ここらは血の海じゃったけんな」
その後の会話はあまり記憶に残っていません。被爆経験のある人と一対一で会話をしたのは人生で初めてであり、何を話せばいいのか言葉が思い浮かばなかったことだけ憶えています
ただあの時のおばちゃんが発した「血の海」という言葉だけが私の脳裏に刻まれています
毎年8月6日のニュースをきくと、あの時のおばちゃんとの会話を思い出します
天六のお好み焼き、美味しかったなあ
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