中野ひろし プロフィール 詳細版2024年04月08日

昭和48年(1973年)7月生まれ。
大洲市常磐町にてアイスクリーム卸売業と食料品店を家族経営で営む中野家の長男として生まれました。

喜多幼稚園入園

大洲乳児保育所、喜多保育所、喜多幼稚園を経て、昭和55年(1980)4月、大洲市立喜多小学校入学式。当時は児童数1200名、南予一のマンモス校でした。昭和57年(1982)、家業の業務拡大に伴い現住所の東大洲に転居します。

昭和61年(1986年)4月、大洲市立大洲北中学校入学。この頃が家業のピークであり、学校そっちのけで家の手伝いに勤しんでいました。

平成元年(1989年)4月、愛媛県立大洲高等学校普通科入学。中学時代から勉強には自信があったのですが、入学早々高校の授業レベルについていけず、1年生の2学期から卒業までいわゆる「バラ組」に。ただ、クラス室長には7回連続選出されていたので、教員との交渉能力は磨くことができました。このころ生徒総会を通じて校則の緩和運動に取り組むもあっさり挫折を経験します。

この2年後に発足した細川連立政権で、赤松文部大臣の「丸刈りはゾッとする」発言をきっかけに愛媛県公立中学校から一斉に丸刈り強要が無くなるという事件を目の当たりにし、政治の重要性を初めて認識します。

大洲高校卒業後は「地元大洲を見つめ直すためにも大学だけは県外への進学を」と強く希望していました。反対する両親と押し問答の末、合格していた地元大学を辞退し、広島市の河合塾予備校にて寮生活をおくることに。翌年なんとか試験に合格し一浪で平成5年4月同志社大学経済学部に入学します。

「20代の感性で世界を体験しろ」との担当教授の言葉や野性的な先輩学生に触発され、大学の長期休暇のたびに中国、モンゴル、ベトナム、カンボジア、ミャンマー、インドなど10数ヶ国へバックパックでの一人旅を繰り返します。

チベット自治区のヤルンツァンポ川にて

就職活動では首尾よく愛媛県の地方銀行からいち早く内定をいただたいたものの、海外放浪のツケで卒業単位にわずかに届かず1年留年。内定は取り消しに。「就職してないのにクビになった男」として友人に散々冷やかされる羽目になりました。

平成9、10年は大手金融機関の破たんが相次ぐなど時代は就職氷河期時代のど真ん中に。大学卒業後、平成11年に両親と祖母が暮らす大洲市への帰郷を決意します。家業を担いながら、社会福祉法人の非常勤職員を経て松下寿電子大洲工場に部品を供給するメーカーの大洲駐在員として働いていました。

ちょうどそのころ、大洲市では山鳥坂ダム建設中予分水問題を巡って住民投票条例請求運動が湧き上がります。反対運動ではない「住民投票条例制定の請求」に私は強く共感し、生まれて初めて政治的な運動に参画します。その後、有権者数の6割を超える有効署名が集まり、大洲市議会に直接請求されることになりました。そしてここで初めて私は「議会」を傍聴したのです。平成13年12月のことでした

これだけの署名数でも住民投票条例案はあっさりと否決され、その際、反対討論として登壇したのが当時の大森隆雄議員、後の大洲市長でした。発言内容は「議会で慎重に検討した結果の否決。我々も民意を代表している。今回の結果に不満であれば、来年の市議選にぜひ出馬を」というものでした。傍聴者からは「議員じゃなかったら意見を言うなということか」「選挙なんか出れるわけなかろうが」などと非難轟々。しかし私は妙に納得したのです。「あの大森さんっていう議員が言ったことは真理じゃないか。議会の決定に不満なら立候補して市民に信を問うのが本筋だ」と。その時、これも初めて自分自身が立候補することを意識したのです。

それから大洲市議会をいろいろ調べ始めましたが、とにかく情報がない。議会の公式サイトもなければ、個人サイトもひとつも無く愕然とします。「自分が議会の中に入れば、情報公開を推し進めて様々な行政や議会の情報を発信できるのではないか。高齢男性で占められてる中で、自分なら大洲市民に違う選択肢を示すことができるのではないか。」

私は立候補を決意しました。平成14年5月をもって会社を退職し、9月の大洲市議選に向けて政治活動を開始したのです。28歳のときでした。

「従来と違う政治を志向する以上、選挙のやり方も従来とは変えなければならない。」これは立候補にあたって私の信念でした。


(続きは、また改めて更新します。長文失礼しました。)


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